午前中の点滴の後、ぼくは売店に行った。 結構面白そうな文庫本などがそろっていて退屈せずにすみそうだった。 もちろん小説は持ってきているが点滴を受けながら読んでいるとすぐに終わってしまう。 残ってる小説といえば○○出版のA氏が貸してくれてまだ読んでいない『沈黙』だけだった。 どうも『沈黙』だけは読む気がしない。 それでもと思って持ってきてはいたが、手付かずで置いたままになっていた。 好きな小説を二冊買って病室に帰るとH医師がもう来ていて、窓際で座っていた。 「あっ」 H医師がぼくを見る。 「いいよ、早く着たからね。世間話も良いと思って」 「あ、は・はい」 ぼくは急いでベッドに座る。 「楽にして良いよ」 H医師はそう言うとこの前持って帰ったぼくの原稿をサイドテーブルに置いた。 「読ませてもらったよ」 さんざんみんなから駄目出しされた作品だった。 その悪いところもまだきちんと自分では分かっていない。 「どう?自分では?」 「え?ああ、みんなから主人公が動いてないと言われて・・・」 「まだ理由が分からない?」 「はい。編集の人は『沈黙』を読めば分かるって言ってくれてるんですが・・・」 H医師がぼくの顔を見た。 「へぇ・・どうだった?」 「まだ読んでないんです・・・」 「どうして?」 「・・・す・好きなジャンルじゃない事もあるし・・・」 「歴史的なもの?それとも宗教かな?」 「・・・うーん、宗教的な事もやけど・・一番引っかかってるのは主人公の生き方かな・・」 「生き方・・?」 「・・・ええ。キリスト教弾圧に苦しむ人達を見ているうちに耐えられなくて宗教を捨てるでしょ・・」 「弱い?」 「そのあたりは背教の問題になってくると思うんやけど・・・やっぱりその辺りかなぁ」 「何か世間話から本題に入れそうだけど」 H医師は楽しそうにそう言って微笑んだ。 「・・・強い・弱いの問題ですか」 「そう・・・K君が神経症になったのは弱いから?」 「それは・・・弱いからじゃないですか?強ければならないと思うし」 「じゃあK君は強くなれば治ると考えてる?」 「はい」 「・・・そうか。それで君の小説の主人公が動かないんだ」 「え?」 ぼくは訳が分からずH医師を見た。 小説の『沈黙』、宗教、背教、そして強い・弱いの話からいきなりぼくの作品になった事に戸惑いを感じた。 「君の小説の主人公は強い人間として描かれてるね」 「あ・はい」 「君は今自分は弱いって言ったじゃない」 「だ・だから・・・」 H医師は反論しようとしたぼくを制した。 「ね、ぼくは小説の事は分からないけど・・・弱いと思ってる人間が強い主人公を書けるのかな?もう一つ君は強くなれば神経症は治ると言ったけど、強い、弱いってどこで判断してる?」 「・・・・・・・・・」 「君が考えてる弱さっていうのはどういう事なんだろう。」 「そ・それは・・・」 「それが分からなければ君の神経症は改善しないよ。」 「・・・・・・・・・」 H医師はぼくを見て立ち上がった。 「まだ時間はたっぷりあるさ。焦らずに考えていこう・・・そうだ。君に対してアドバイスになればいいんだけど・・・無理をすれば自分では上手くいったと思っていても何処か歪んでるもんだよ」 そう言うとH医師はぼくの肩に手をおいた。 「今日のぼくとの話はほんの短いものだったけど、その中に解決するすべてが入ってるんだよ。もっと自分を解き放して自由に考えてごらん。そんなに難しい事じゃないから」 そう言うとH医師は部屋を出て行った。 ぼくは暫く動けずにドアを見つめていた。 H医師の言った事はぼくにはある意味ショックだった。 ・・・ぼくの中にすんなり入ってきた・・・ こんな事は初めてだった。 ぼくは自分の神経症に対して三分の二以上は諦めていた。 入院したのもこの神経症を抱えてどう生きていけば楽なのかその方法が分かれば良いとしか思っていなかった。 ぼくはドアから窓外に目を向けた。 「もう一度最初っから考え直してみよう・・・」 開け放たれた窓からまだ残暑の残る青空が見えた。 でもその色はもうすっかり秋の色だった。 |
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