その日、ぼくは広い中庭の見えるベンチに座っていた。
お陰で体調は日に日に良くなってきている。
不思議なもので体調が良くなってくると、今まで面倒だとか思っていた事にも手を出したくなってくる。
病院での生活が退屈でしかたなかった。
それに点滴も来週から午前中だけになるらしい。
ただ神経症だけがぼくの前に立ちはだかっていた。
H医師との二人だけの対面療法もある程度の効果が出てきていると思う。
ただあと少し手を伸ばせば触れるはずのものに届かないもどかしさがあった。

もう蝉も鳴いていなかった。
空の深さ、風の冷たさがすっかり夏色を覆い隠してしまっていた。
そしてあの日以来、茉莉に連絡もしていなかった。
いや、していないというより出来ないと言った方が良いかも知れない。
初めのうちは茉莉から連絡があるだろうという密かな期待もあった。
しかし病院という中で連絡と言っても茉莉はぼくがどの病棟にいて、どの病室にいるのかさえも知らないでいる。
病院の案内に電話を入れて探してもらえば分かるのだろうが、茉莉の性格を考えればそんな事をしそうにもなかった。
ぼくが連絡すれば良いことなのだが少し意地になってしまっていた。
・・・あと一ヶ月ちょっとか・・・
ぼくはゆっくり立ち上がると売店の方に歩き始めた。
自然に溜息が出る。
そんなぼくに少し冷たい秋の風が絡みついてきた。

ぼくはベッドに座るとサイドテーブルを見た。
持ってきた本も、此処で買った本もすべて読んでしまっている。
今日は売店が休みだった。
今からの時間を何もしないで過ごすと思うとたまらなく退屈だ。
『青春の神話』の事も、新しい作品の構想もまだ考えたくはなかった。
今作業に入ってもまた中途半端になりそうで怖かった。
ぼくはゆっくりと身体を倒す。
清潔な薄いクリーム色の天井に一つだけ小さな染みがついていた。
・・・あの染みはぼくの神経かな・・・
ぼくは染みから眼をそらすと、横を向いた。
サイドテーブルに何冊もの本が重ねて置いてある。
・・・『沈黙』か・・・
ぼくは単行本の少し重い『沈黙』に手をやった。
・・・これしかないなぁ・・・
ぼくは腹這いになると初めて読むために『沈黙』のページを開いた。

「Kさんっ!」
看護師に大きくそう呼ばれるまでぼくは本に夢中になっていた。
「あっ・・」
「点滴の時間よ」
読み始めてから三時間が経っていた。
ぼくは何時もの点滴を受ける時の姿勢になる。
点滴の針を腕に刺しながら、
「今日は何時もより熱心ね」
「そ・そうかな・・・」
「ちょっとKさん、熱があるんじゃない」
看護師はぼくの顔を見てから手を額にあてた。
「たいした事ないと思うけど・・・」
看護師が体温計をポケットから出す。
「あ、計らんでええよ・・・」
「でも・・・」
「熱やない思う」
困った顔をして看護師が体温計を持っていた。
・・・『沈黙』のせいや。何かはっきり分からんけど何かが変や・・・
「じゃあKさん、辛いとか熱が上がってきたと思ったらすぐに呼んでよ」
「う・うん・・・」
看護師はもう一度ぼくの額に手をあて、顔を見てから病室を出て行った。
おそらくその時のぼくの表情は余程おかしかったに違いない。
病状の変化で悪くなった顔とか色とかとは違い、呆けたように見えたのに違いなかった。
それだけその時のぼくが普通ではなかったと自分でも思う。
・・・ロドリコとキチジローか・・・
ぼくは枕の横に伏して置いた『沈黙』を見た。
・・・ひょっとしたら・・ひょっとしたら・・・
ぼくの中に湧いた思い。
それは喜びではなくある種の戸惑いなのかも知れなかった。
・・・もう少し待って・・・
すぐに結論に持って行きたくてたまらない。
・・・全部や。全部読むまでまだ考えたらあかん・・・
届きそうで届かなかったものにもうすぐ触れられるかも知れない。
そんな確信にも似た思いが心の全てを覆った時、ある現実を突きつけられぼくは唖然となった。
・・・これって諸刃の剣やん・・・
ぼくは点滴の針が入っていない方の手で本を持った。
何故か一冊の『沈黙』という作品が大きな石のように重く感じられる。
・・・少し前やったら逃げたかも知れんなぁ。でももう後戻りは嫌や・・・

顔の火照りが徐々に治まって来る。
窓から入ってくる風のせいかもしれない。
ぼくはほ〜と息をついだ。
風の中に柔らかな銀木犀の匂いがまざっていた。



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