ぼくは彼女の乗ったタクシーをぼんやり見送っていた。
何も考えられなかった。
訳の分からない高揚感が身体を支配している。
「あのひとに逢えた・・・」
先ほどとは違う震えがあった。
ゆっくりと視線を落とす。
ぼくの目に名刺の中の名前が飛び込んでくる。
名刺という現実がぼくを我に返してくれた。
そしてその時、動き始めた街の騒音がいっせいにぼくの耳に滑り込んできた。

ぼくは窓を閉めた。
水だけになったグラスに氷とトリスを入れる。

あの日、眠れないまま思うことは『茉莉』のことだった。
「遠いなぁ・・・」
ぼくは自分の生活を思い、心を思った。
何か違う事が起ころうとすると自分から遠ざかる。
そんな癖がついていた。
あれだけ心で思いながら、今度も逃げようとしている。
ぼくはゆっくり布団の中から身を起こした。
ざわざわと心が揺れていた。
逃げようとする心を押しのけて入ってこようとしてるもの。
その感情を抑えるには逢えないであれこれ夢想した時間が長すぎた。
「しんどくなるなぁ」
口にして言ってみる。
何時もならそう思うだけで重く沈んでいったのに、今は気持ちのいい高揚感があった。
不思議だった。
これで前のようになれるとは思わなかったが一つの転機に繋がるかも知れない。
そう思うとふぅっと緊張してきた糸が緩んだように思われた。
そしてたまらなく書きたくなった。
A講師に言われていた女優へのラブレター。
書かなくてはと思いながらバイトのせいにして原稿用紙にも向かっていなかった。
今日ある授業のことなどどうでもよかった。
もうとっくに陽は昇っている。
ぼくは陽を遮断する厚いカーテンを見つめていた。
頭の中で幾通りものストーリーの断片が浮かんでは消える。
「焦らずに・・・」
ぼくは目を閉じる。
『喫茶店でカップルがいたら、その二人の関係を10通り以上想像しなさい・・・想像出来たら一つ一つメモして、枝葉をつけて・・・ストーリーに・・』
A講師の言葉が浮かんでくる。
「女優へのラブレター・・・か・・」
幾通りかのストーリーは浮かんではくるが、女優の顔が曖昧としていた。
A講師との授業の後は何人かの候補がいたというのに・・・
頭の中で踊っているストーリーがおおざっぱに固まろうとしている。
その主人公に何人かの女優を重ねてみる。
ぼんやりとしているヒロインにぼくは何をさせたいのだろう。
どんな人生を背負わせるのだろう。
ぼくは初めてシナリオというものの難しさが大きな壁となって立ち塞がるのを感じていた。


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